人間なんて、「良い人」「悪い人」なんて勧善懲悪アニメのように簡単に割り切れるものではない。米兵達でさえ、母国や家族と離れて日々上官に酷使され、憂さが溜まっていたのかも知れない。もちろん、日本人に嫌がらせをした彼らの行いは断じて許せるものではない。絶対的弱者を標的にする時点でそれは卑怯であり、人間として箍が外れているとも感じるからだ。
訴えよう、警察に行こうと(無理やり)誘導する教師は、やはり無責任であると私は考える。
なぜなら、自分に危害が及ぼうとする場面では徹底的に身を守るからだ。彼はリスクを犯したくないのだ。訴え出たところで、何か不都合なことが起きようものなら自己保身の弁明に走るだろうし、早々に訴えを取り消すであろう。
そういう面が分かるからこそ、主人公もほっといてくれという気持ちになるのだと思う。
届け出たとしても、兄弟や親にすら言えない孤独の中で、たった一人で戦わなければならないさらなる孤独感…。露見したときの羞恥心。
そう感じ続けてしまう限り、主人公は立ち向かう気力すら起きないのだと思う。
たとえ私が教師の立場であったなら、自分も主人公と一緒に泥を被る覚悟で協力者になれるか…。主人公の立場であったならば、身を挺して大衆の眼に晒される事を受け入れるか…。
「できる、その覚悟がある。」と自信を持って言えるのか?
否。
今は断言することなど到底できない…。
「ほら、やはりそうだろう。だから僕はこうすることしかできないんだ」
主人公の声が聞こえてきそうである。
この問題は、この小説は私にとってタイムリーなものであった。というのも、私は将来将来警察官になり、主に性犯罪などの取り締まりに関わっていく仕事がしたいと考えているからである。
「人間の羊」が抱えているテーマは深くて素晴らしいものであるし、性犯罪に限った事ではないのかもしれないのだが、主人公が受けた屈辱…そして交番に行くまでの経緯など、まず頭を過ぎったのがその問題であった。なので、この小説の警察官の対応も大いに疑問に思う。
確かに、そういった訴える側に立とうとする考え方が表立ってきたのは平成に入ってからであるし、当時はプライバシーや被害者保護の観点すら希薄だったのは容易に想像できるが。
そういった問題を、見つめて改善していける世の中にしたい、と思っていた。
しかし、この小説を読んで、私も所詮は教師以下の第三者であるということに気がついた。
何よりも覚悟が必要。そう強く感じた。
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